重要文化財旧奈良家住宅と棟梁間杉五郎八について

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【こちらは秋田史苑第35号に投稿した文章になります】

 

はじめに

 

 私は百戸弱ある村の出身で、二軒ばかりある農家に生まれ農耕用の牛を飼っていた。鍵型の江戸

末期に建てられた家で、入ってすぐ右に馬屋があり、幼年期まで牛と同居していた為、他家は清潔で土間もなく当時は伝染病など流行し、不衛生と噂がたち、肩身の狭い思いをしたのを覚えている。

古民家が遠くなりつつある今日、重厚な萱屋根・馬屋・土間・竈、そして自然石を土台とした大黒柱や、自在鍵が吊るされている囲炉裏等、先人の知恵・工夫・息づかいが感じられ、郷愁の想いからか古民家を訪れるのが趣味になった。

秋田市金足小泉に存在する重要文化財旧奈良家住宅(以下旧奈良家と記)を数回訪れる度、棟梁は土崎の間杉五郎八と刊行物や本・パンフレットに記されているが、豪商間杉五郎八の何代目の方が棟梁だったかは、確たる棟札等が残っていないので、宝暦期を中心に奈良家・間杉家の伝承や古記録等に基づいて何代目かを推察してみた。

 

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 秋田へ移った奈良・間杉両家の時代背景

 

まず秋田県教育委員会発行『重要文化財奈良家住宅修理工事報告書』(昭和四十六年)(以下奈良家報告書と記)によれば、奈良家は弘治年間(一五五五~五八年)大和の生駒山麓小泉村(現郡山市生駒郡片桐町小泉)の農家で、現在の昭和町豊川字上虻川に移住したとあり、当時このあたりは、潟や湿地が多く耕作しにくいので、現在の小泉に移ったとされている。

 一方、間杉家は、「先年ゟ(より)御用達上并由緒書」上法香苗編『間杉家文書』の古記録に、「私先祖五郎八儀生国越前ニ御座候処 本国兵乱ニ付永禄二年六月父子共ニ当地エ罷下候」と天保十五(一八四四)年に記され、両家は、奇しくも弘治から永禄二(一五五九)年の三~四年の間に移住している。

この期は、戦国時代の最盛期で川中島の戦い斎藤道三が子息義龍に敗死、永禄二年は武田晴信が信玄と号し、その一年後信長が今川義元を討った動乱の頃である。戦力を強固にする為、兵農分離のきざしが顕著になりつつあり、農民の移動が激しい時代でもあった。

秋田では、同族でありながら、安東氏が主導権争いや跡目相続をめぐる萌芽期であった。

図1 奈良家略年譜

 

九代善政(喜兵衛)
享保十四~安永五

八代善忠(喜兵衛)
元禄九~宝暦元

七代善則(喜右衛門)
承応三~享保

宝暦年中北野天満宮造営の為三百両寄進

家屋新築(現存の家屋)工事三ケ年に亘り費用銀七十貫を費やすという。

湊の間杉五郎八差図す。田地十万刈

田地四万三千六百刈

田地七千二百刈

秋田県教育委員会 昭和46年

奈良家住宅修理工事報告書

 

このような時代背景の中、奈良・間杉家が秋田へどのような手づるでこの地を知ったのか陸路・海路など興味津々である。

 

  奈良家九代善政(喜兵衛と代々の活躍

 

前述した奈良家報告書の奈良家略年譜に、奈良善政(喜兵衛)は九代(以下喜兵衛と記)とあり(図1)、「家屋新築(旧奈良家)工事三ケ年に亘り費用七十貫を費やし旧奈良家を建立した」とされている。

喜兵衛の足跡を調べてみれば、内田武志編著『菅江真澄未刊文献集』(昭和二十八年)の「久寶田能おち穂」文政五(一八二二)年の中の「でとのみやしろ」には、「秋田郡出戸の菅神のみやしろは、(中略、以下簡略)大きく建てられているが、行く度も荒れていたので、今の社は小泉村の奈良喜兵衛が寄附せり」とあり、奈良家略年譜の中にも、「宝暦年中北野天満宮(現北野神社)造営の為、喜兵衛寄進」とある。

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この北野神社については、『天王町出戸郷土誌』(昭和三十四年)にも述べられている。伝説等は省くが、寛文七(一六六七)年御普請奉行川上治左衛門が指示した「万覚帳」が花押付きで記され、元禄・宝永迄北野神社造営の材料の用途内訳があり、続いて「~宝暦十一(一七六一)年表向きは、御内陣の御普請となっていて、湊大浜の流木弐拾本と御普請料として御銀三百目、御本尊御初穂として御銀弐拾目頂戴している。金足小泉の奈良喜兵衛の寄進」とされている。図1の三百両寄進表示について奈良家住宅修理工事報告書の文面に「天満宮の寄進は、系図には三百両とあるが、これは建築費用であろう」と記しているので、寄進は銀三百目と思われる。

また、三浦匝(そう)三編『秋田英名録』(昭和十三年)によれば、「喜兵衛奈良氏金足村小泉に住す、奈良より来れるを以て奈良とす。(中略)朝夕農家の労苦に携わり、家道終に富裕となる。其後文政年中喜兵衛数代の孫(十二代喜兵衛)土崎大久保間、冬期の風雪、夏は炎熱対策に、路傍へ松樹を植、その恩沢を蒙る者十二村民に、また金子を藩主に献んじ、天保年中藩士に列せらる。現代磐松に至るまで十数代子孫連綿祖先の志を継ぎ巨萬の冨を有するに至れり」(簡略)とあり、代々苦労と精進を重ねつつ秋田藩や男鹿南秋地域へ、多大な貢献をしたことがよくうかがわれる。

 

三 間杉五郎八家について

 

前掲間杉家由緒書の続きに「御国は静謐(せいひつ)ニ而当時之穀保町ニ住居、(中略)当地ニ而諸品甚タ不自由ニ付生国は越前之事故敦賀ニ所縁之者有之茶・紙其他小間物品々船を以指下候得共兵乱之砌ニ而海賊多大船ニ而は通路難相成候ニ付小船之底エ諸品積入、(中略)御家中初町々エも売弘メ家業致」とあり、移った時は静かでおだやかだったが、日常必需品の不足を感じ移入、当時の商いの状況がよくわかる内容になっている。中でも永禄期敦賀から土崎への通路は「~諸品積入其上エ網苫等之類を入漁船之体ニ致漸々指下」とあり、当時の舟運の漕ぎ手は何人か、帆の素材は何だったか、海路図・気象や茶紙の耐湿等どのように対処したのか、想像を絶する状況が江戸中期の北前船とを比較させられ、興味が膨らむ古記録といっていいだろう。

また、右由緒書に、「~秋田実季御国替となり、慶長七(一六〇二)年佐竹義宣公御下向以来、取扱売買が増え、(中略)段々米穀諸品も多くなり、海上の盗難もなくなり、廻船入込繁昌した」(簡略)と記され、さらに「延宝・天和の頃より御用金銀達上(資料1)藩より御紋付裃拝領」とあり、佐竹義宣公以来、廻船問屋間杉家の順調な推移と隆盛がよくわかる。

(資料 1)

 

御用立金銀米銭控

天和年中

 一 文銀四貫目

   右は御参勤用ニ付調達被仰付御蔵元伊多波甚蔵エ上納

天和年中 

 一 文金百五拾両

   右は御運上方エ当座御取替御蔵元

同人エ上納

寛保三年亥正月十二日

 一 文銀弐貫弐百五拾目

   多賀谷佐兵衛様御末書

 延享五年辰六月廿九日

 一 同 拾貫目

   山方内匠様御末書

宝暦四年戌四月廿九日

 一 同 四貫目

   小田野又八郎様御末書

同七年丑七月

 一 同 五貫目

当座御取替御金蔵上納

宝暦十年辰九月十二日

 一 文銀弐拾貫目

   御取替御金蔵上納

同十一年巳四月十三日

 一 同 三貫弐百六拾五匁

   当座御取替御金蔵上納

同年四月廿九日

一 同 弐貫目

当座御取替御金蔵上納

同年六月五日

 一 同 弐貫目

当座御取替御金蔵上納

同年六月廿一日

 一 同 弐貫七百三拾五匁

同十二年午四月十二日

 一 同 五貫目

当座御取替御金蔵上納

宝暦十三年未十二月廿三日

一小判六拾四両

一壱歩判百拾四粒

御取替御金蔵上納

 

同年十二月廿九日

  一壱歩判四百弐拾四粒

  一文銀三貫拾五匁

当座御取替御金蔵上納

宝暦十四年申正月晦日

  一小判四拾七両

  一文銀五貫三百八拾五匁

上法香苗編 『間杉家文書』 

 

当座御取替御金蔵上納

 

 旧奈良家住宅と棟梁間杉五郎八について

 

確証とされる旧奈良家棟札について、伊藤ていじ著 『民家は生きてきた』鹿島出版会(二〇一三)の中に、「~棟札によれば今をさる二百年前の宝暦年間に建設されたものである」と書かれているが、奈良家住宅修理工事報告書の中に、長谷部哲郎氏が「創立および沿革」の文面に「~奈良家伝記の普請関係をさぐってみると、九代喜兵衛の項に宝暦年中新規家普請致候云々とあって年次が示されていない。伊藤氏の宝暦の棟札というのは家伝記にある新規普請の時の棟札をさすのではなかろうか」と述べているが、奈良家より秋田県立博物館へ昭和四十四年寄贈された時点で、棟札は分からなくなっているとの事。(秋田県立博物館より)

さて、土崎の間杉五郎八という人物については、菅江

真澄の「でとのみやしろ」の文面続きに「~此社建るとき、湊のかゝ町の五郎八が、さしづして、墨縄うちて、手斧はじめし、そのゝちハ、久保田ノ五丁目の十左衛ト云エる大工ニ作らせたり、(中略)仏師ハ、喜左衛門とて、大工をもせり、土崎湊の五郎八は、常人(シロト)ながら名あル番匠にもまさりけり、今みなとニ名ある大工ハ、ミな、五郎八が弟子ともの末(ナガレ)なりといへり」とされ、当時は北前船の寄港地であったことから、舟大工・宮大工・家大工が大勢活躍していたと考えられるが、五郎八の大工の技量・みなと大工衆の育成等非凡であったことから、人伝いにかなり広まっていたと思われ、喜兵衛が旧奈良家建立に五郎八を差図すとは容易に理解できる。

 

 廻船問屋の商環境と間杉家

 

〇五郎八は十六代迄あり、以下省略

〇五郎八 当家十代 
釈宗全 俳号汶水 八十八歳歿

〇五郎八 当家九代 
釈宗順

〇釈尼妙休 当家八代に算ふ、

宗 栄 五郎八後妻

〇釈証円 当家七代 
通称五郎八

  前代省略

寛政四年歿

(一七九二)

宝暦十一年没

(一七六一)

宝暦三年没

(一七五三)

宝暦八年歿

(一七五八)

図2 間杉家家系図(宝暦年間)

上法香苗編 『間杉家文書』

 

まず宝暦期の秋田藩政の状況は、財政立て直しの為、領内でのみ通用する紙幣発行を宝暦四(一七五四)年幕府から許可を得たが、藩の思惑どおり銀札は普及せず、インフレとなり、宝暦六(一七五六)年藩主義明は家老を罷免、後、美濃国茶商人が、銀札から正銀の交換を、藩の札元より拒否されたとして幕府へ訴え、宝暦七年秋田藩は銀札の通用を停止、幕府認可から三年で銀札仕法は失敗に終わった。渡辺英夫著『秋田藩現代書館(二〇一九年)

また、宝暦六(一七五六)年藩は一六四万両余の赤字になり、宝暦十一年は藩主赤字財政の為、参勤交代を差し支えた。

一方、領内の廻船問屋の商環境においても、秋田藩から宝暦四(一七五四)年、今後三ケ年間他領との交易出入を禁じ、正金銀銭等の通用を差し止められた。翌年は東北地方が大飢饉に襲われ、宝暦十三(一七六三)年には、久保田・土崎・能代をはじめ領内冨商に用銀調達を藩より命じられている。『秋田県史第七巻』 

しかし、驚いたことに十代五郎八は、この時久保田と土崎でただ一人五百両を藩に差し上げており『土崎港町史』、前述した「御用立金銀米銭控」からも、間杉家では莫大な資金の蓄積があったと想像される。

次に、棟梁五郎八を図2からに推測してみた。

 

 

宝暦期は四名が当家に就いている。七代五郎八は宝暦八(一七五八)年没となり、八代目は、故あったと思われ、釈尼妙休という女性が「当家八代に算ふ、宗栄五郎八後妻」とされ、実質経営には従事していなかったと思われ、夫宗栄五郎八は不明である。九代目は八代目没から八年、七代目没から三年経過し宝暦十一年没している。

 

前述した混迷の宝暦時、間杉御用聞商人の連綿にわたる家業経営は、藩からの御用金・御用命等物資両面の要請が度々あり、順調な隆盛と豊かな冨を築いていたとはいえ、兼業できる程甘いものではなかったことを示唆している。

しかしながら、十代目五郎八は、宝暦期に十一年間過ごし、没した八十八歳から宝暦十一年迄遡れば、五十七歳で当主になっている。よって、十代目五郎八に絞ってむすびとしたい。

 

 むすび

 

十代目五郎八を旧奈良家棟梁と思われる点をあげたい。

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まず、石川理紀之助(別家奈良周喜治の三男)が、『天王村適産調旧蹟考』(明治二十八年)の中で、北野神社と九代喜兵衛について天満宮の項から神社と旧奈良家同時着工したとある。以下原文

 

「上出戸にあり、古社也。社は中頃佐竹家の建立、后奈良喜兵エの再建也。(中略)本社零落したる頃小泉の奈良喜兵エに子なく、いのりて一女を得たり(予が実家の玄曾祖母也)これがはたしとして再建したるは今の社也。工人は名だたる人にして秋田に無二の名工なりといふ此大工は今の奈良茂(十四代)の家も一時((註イ))に建てたりといふ」とあり、旧奈良家建立について如実に記している。(北野神社入口に由来板あり宝暦十一年と記)

故に棟梁五郎八は、何代目かは既に述べた菅江真澄の「でとのみやしろ」や石川理紀之助の「天王村適産調考」に、北野神社と喜兵衛の「謂れ」と奈良家同時着工、『天王町出戸郷土誌』には元禄・宝永から宝暦期までの材料用途内訳、奈良家住宅修理工事報告書の奈良家略年譜に喜兵衛「湊五郎八差図す」等の史料から、宝暦十一年に間杉家を継いだ十代五郎八と推測、私のむすびとした。

 

(註イ)一時(いちどき)はいっぺんに。同時に(柏書房古文書字典)

                            

余談だが、明治四年頃建てられた横手市増田の重要文

化財佐藤家住宅(佐藤又六)の現十二代当主又六氏によれば、この建物は主屋と文庫蔵がともに残る増田地区最古のものとのこと。

興味をもったのは、二階の座敷の梁へ草鞋と藁を貼り付けており、草鞋は鼻緒を切って棟梁が奉納したとのこと。鼻緒を切り落としたのは、頑丈に造ったので、もう草鞋を履いてこの蔵にくることはなく、堅牢の証と説明されていた。安の定、巨木の欅や赤松が梁として使われ、衝撃など逃がす木片の楔が多数打ち込まれていた。増田地区の草鞋奉納は数カ所みられる。

棟梁の奉納は、棟札だけではなく様々なものがあったと発見した。

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鼻緒を切った草履(佐藤家)

 

おわり